我国における身辺警護、つまり”ボディーガード”の起源は「北面武士(ほくめんのぶし)」が始まりと言われています。

平安時代後期の1095年、白河上皇が御所の北面(北側の部屋)に詰所を設置し、そこに上皇のボディーガードを専門に行う、武士の組織を編成しました。

それが北面の武士で1,000人規模を誇ったそうです。

しかし承久の乱で御所院の軍隊組織が壊滅してからは、存続こそしましたがただの警備隊に成り下がります。

その後も時代の流れとともに衰退し、江戸時代には警備隊としての機能を喪失。

その後明治維新までは、家柄を表す名目として「北面武士」の名だけは残っていました。

転機となったライシャワー米国大使と三木総理大臣の襲撃事件

明治時代に入ってからは、警察で巡査が大臣らの邸宅を警備する制度が採用されます。

そして総理大臣と閣僚それぞれに、ボディーガードが付けられ身辺警護制度が確率されました。

戦後は1964年に発生したライシャワーアメリカ大使襲撃事件(アメリカ大使館門前で統合失調症患者に大腿を刃物で刺され重傷を負った)を機に、警視庁内にボディーガード専門組織「警護課」が編成されます。

そして11年後の1975年6月日本武道館で執り行われた、佐藤栄作元総理国葬に列席した、三木総理大臣が右翼に殴打される事件が起きました。

この当時警視庁警護課は目立たない警護、ロープロファイルで警護していました。

犯人の右翼は周りにボディーガードがいるとは思わないので、堂々と総理に近づいて襲ったのでしょう。

この反省から、警視庁警護課はアメリカ大統領を守る”シークレットサービス”のボディーガードスタイルを採用し、SP(セキュリティーポリス)を発足します。

シークレットサービスは目立つ警護ハイプロファイル、つまり警護対象者の周りをボディーガードが取り囲み、威嚇気味に警護して、襲撃をあきらめさせるという、予防面を重視した警護スタイルを採っています。

日本のSPもこれと同じスタイルでボディーガードを行っています。

ボディーガード業は届出が必要

民間ボディーガードは警備業法上、4号警備(身辺警備)と規定されます。

ボディーガードを生業にするには4号警備業者として、都道府県公安委員会の認定を受けなければなりません。

ボランティアや社員が社長をボディーガードする場合この届出は必要ありません。

日本の民間におけるボディーガードは、その警護対象者が個人に限られていたので、ボディーガードのニーズは多くありませんでした。

しかし1970年頃から外国から来日するエグゼクティブのボディーガードを警備会社が行うようになります。

そしてテロの脅威が増えるにしたがって、警備会社へのボディーガード業務の期待とニーズが高まるようになりました。

さらに1975年頃には警備会社でも、専門教育と訓練を受けたボディーガード部隊が設置されるに至っています。

暴対法施行後に続発した企業要人射殺事件

1992年に暴対法が施行されてから、暴力団との決別宣言をした企業幹部が襲撃される事件が続発します。

湯浅信金本店長刺殺人事件(1989年/自宅で入浴中に刃物で殺害される)阪和銀行副頭取射殺事件(1993年/朝、社用車に乗り込んだところを銃弾3発で射殺)富士フィルム専務殺人事件 (1994年/自宅前で刃物で殺害さる)住友銀行名古屋支店長射殺事件(1994年/自宅マンション玄関前で射殺される)これら凶悪事件の脅威が高まるにつれ、企業幹部のボディーガード業務が継続的に行われるようになり現在にいたります。